祈りのコラム (52)

「自分を卑しくし」   

 千葉に来た年は寒い冬でした。信仰による確信はあったのですが、50件以上不動産屋を探して、やっと契約した店舗付き住宅は、教会用の場所が殆どで、親子三人荷物に狭まれ二畳くらいの隙間に寒さに震えながら寝ていました。毎日、長男を自転車の荷台に乗せてトラクトを配りながら、集まっても救われない人々に悲嘆に暮れていました。息子がニコニコしながら私を手伝おうとするのに、感極まって泣き出しそうになりながら涙を隠したものです。

月刊アッセンブリーNEWS
1997年 2月号掲載

月刊アッセンブリーNEWS 1989-1999に連載された「祈りのコラム」からいくつかピックアップして掲載。
あなたの祈りの生活に励ましを与える小品集です。

「自分を卑しくし」

 伝道が難しいだけではなく、救われた人も奉仕をせず、捧げることもしないで反って信仰熱心な牧師を一緒に非難する日々が何年も続きました。無念を人に語ることもできず、涙の祈りと苦闘が続き、心臓を悪くして不整脈になり動くこともできず、布団の上でオイオイと泣きました。

 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿を取り、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2:6-7)
 
 イエス様の十字架の姿が思い浮かびました。そして、自分を主張し、思い通りにならない理不尽を嘆いている自分の罪深さを悔い改めました。人から称賛され牧師として名を上げること、願ったとおりになること、人を定義したり裁くこと、全てやめようと決心しました。平凡な教会の平凡な牧師として主に自分を捧げたいと思います。努力と自己訓練と祈りを怠ってはならないが、人の救いや教会の成長は主の恵みに任せる覚悟をしました。

 今も労苦は変わりません。罪深さもこんなものです。しかし、献身者としての生涯の確信はあります。PTAや地域の会合で酒を飲まない理由を尋ねられます。「牧師として、神や信者をがっかりさせたくありませんので」と答えると「聖職ですね」と言われました。そう、ありたいと願うものです。主よ、お助け下さい。皆さんの平安を祈ります。

《執筆者》

柏崎 久雄

千葉福音キリスト教会