祈りのコラム (53)

「祈りは修行か?」   

 「やっぱり代表の祈りは、修行を積んだ人じゃないとできないんでしょ?」

 ある信徒さんが、何気なく言った言葉である。「えっ?」と一瞬言葉を失った後で、考えた。「そうか。この人にとって、祈ることは修行を積んでいくことと同義なのか。それは、さぞかししんどいことだろうな。」そして、さらに考えた。「いや、もしかして、同様に思っている人って結構いるかもしれない。いや、他人事じゃなくて、私自身そういう傾向があるのかも?」自然と、自分の祈りについて思いを巡らしていた。

月刊アッセンブリーNEWS
1998年 2月号掲載

月刊アッセンブリーNEWS 1989-1999に連載された「祈りのコラム」からいくつかピックアップして掲載。
あなたの祈りの生活に励ましを与える小品集です。

「祈りは修行か?」

 

 私たちの教会では、毎週水曜日と木曜日に祈り会を開いている。最近水曜日の祈り会では、H・E・フォスディックの『祈りの意義』という本をテキストにして、学びを始めた。神学校時代の友人に貰った、そして私自身良い刺激を受けた本である。読む度に、いかに自分の祈りが頑迷で、本来的な意義を見失っていたかと目を開かせられる。先ほどの件についても同様だった。フォスディックによれば、祈りは神が人間に与えてくれた最高の能力である。私たちはこの最高の能力を正しく理解し、訓練することによって、リアルに神と出会い、祈りにある限りない可能性を体験できる。この訓練というのが、しかし曲者である。往々にして習慣的な祈りの訓練は、最高の能力を昇華させるための最も有効な手段と言うよりも、「ああ、今日も祈らなければ。ああ、もっと長い時間祈らなければ。」と、努力一辺倒の苦しい修行へと容易に変質してしまう。しかし、祈りを積んでいくことは、私たちが努力して神に近づくための手段ではなくて、むしろそれとは逆に、私たちをを探し出し、交わりを求めておられる神を知り、親しくお付き合いをさせていただくことであるのだ。このことに気付かされた私は、ホッとして思った。

 「神様、これならできそうです。末長くよろしく。」

《執筆者》

内川 高志

福山キリスト伝道所

(現在は、明石キリスト教会に転任)