2004年5月1日発行 通巻第584号
サンライズのぞみ教会 三上 友通 Tomomichi Mikami
《第四戒》
「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」
(出エジプト記20:8)
安息日の由来
出エジプト記20章8~11節まで読みますと、「安息日」は万物の創造と関連があることがわかります。主は、全てのものを六日で創造し、完成されまLた。神さまは、それらを見て、よしとされました。そして、七日目には、創造の業から離れ、安息なさり、第七の日を神さまは祝福され、聖別されました。
申命記5章15節には、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を、主が解放してくださったことを覚えるために、安息日を守るように命じられたことが、記されています。
安息日は、金曜日の日没から土曜日の日没までですが、ヘブル語で「シャバットゥ」といい、「やめる」という動調からきている語です。この日には、労働を全て止めて休まなければなりませんでした。これは、神さまの働くものへのご配慮であり、神さまと交わる素晴らしい日でもありました。
イスラエルの民族が安息日を重んじるようになったのは、バビロンへの捕囚(BC587)以降であると言われています。彼らは、神殿が無いバビロンヘ連れて行かれ、神殿での礼拝が不可能になりました。そこで、会堂(シナゴーグ)ができ、毎週集まり、安息日を守りました。このようにして、イスラエルの民は主との契約のしるしとして安息日を守るようになっていったようです。
律法学者たちは、安息日にしてはいけないことなど、事細かに規則を作り上げました。その一例に、歩いてもよい距離を定めたり、食事の準備も禁じました。また、病気やけがの治療行為も禁じられたようです。律法的になってしまい、人々の解放を意味する安息が、人々を束縛するものとなってしまいました。イエスさまは、それらの解釈を、身をもって(安息日に片手のなえた人や病人を癒されました。)正されたのでした。『安息日は人間のために設けられたのです。人聞が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。』とイエスさまが言われました。
安息日から主の日に
イエスさまは、安息日には会堂に入って教えられたことが記されています。弟子たちも安息日に会堂に入り、キリストの福音を伝えました。しかし、教会ができて間もなく弟子たちは、イエスさまのよみがえられた週の初め(日曜日)に集まってパンを裂き、復活を祝うようになりました。このように信仰生活の中心が、「安息日」から「主の日」に変わっていきました。そして、ローマ帝国のコンスタンティヌス皇帝がキリスト教に改宗し、AD321年には、「主の日」を帝国の休日として定め、制度化されました。その後、次第に「主の日」が制度化された教会の中で束縛の日へと変わっていきました。
イエスさまは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)とおっしゃいましたが、安息日を廃止したわけではありません。安息日に意味される霊的安息が重要な点です。私たちは、「主の日」に自分たちの業を止め、ただ休むというだけではありません。休むことによって、神さまの自由な聖霊の業が起こるために「主の日」があるのです。私たちにとって、安息日は自由と主の喜びに満ちた日なのです。日曜日に教会で過ごす一日は、皆さんにとってこのような日になっていますか。周りの環境ではなく、主に期待しましょう。
日曜日に教会に行くことが待ち遠しいでしょうか。それとも、クリスチャンが日曜日教会に行くことを義務のように感じておられますか。主にある兄弟姉妹と共に礼拝を主にささげることは、素晴らしい時であり、復活の主の力ある御業を期待できるのです。主の日に仕事を休み、主に心と体をささげることは、私たちを本当に愛していてくださる神さまとの深い交わりで、楽しい、胸がどきどきするほどエクサイティングなことです。