2004年11月1日発行 通巻第590号

サンライズのぞみ教会 三上 友通  Tomomichi Mikami

《第十戒》

「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろぱ、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」
 (出エジプト記20:17)

 この「欲しが」るという言葉は、単に欲しいという意味だけではなく、欲望とその結果の行為をも表しています。また、この語は「貪(むさぼ)る」とも訳されますが、もともと『「喜びを持つ」という意味で、本来自分の所有でなかった物を強く欲しがること。』(新聖書辞典)とあります。強く欲しがると、それを手に入れるために間違った行動をとりかねません。私たちの行動の動機となる部分ですが、そのことについて見ていきます。

自分への不満

 隣の芝生は青く見えるものです。しかし、隣の人やその人の持っているものがうらやましく思えるのは、自分のことについて不満があるからではないでしょうか。神さまは、私たち一人ひとり、それぞれに能力や持ち物、また境遇や機会を与えてくださっています。自分にはあって、他人には無いものがあり、他人にはあるが、自分には無いものもあります。神さまが自分に与えてくださったもので満足していれば、それで貪ることはありません。

他と比べることの問題

 人と比べて状況を考えると、そこからねたみや怒りをもつことになることがあります。アダムの子どもたちのカインとアベルのことは、ご存知でしょう。彼らはそれぞれ、神さまに捧げ物をしました。ところが神さまはアベルの捧げ物に目を留められ、カインの捧げ物には目を留められなかったとあります。カインの姿勢に問題があったようですが、彼は非常に怒り顔を伏せました。神さまがアベルだけを愛していると思ったのでしょう。カインはアベルをうらやましく思い、また憎くも思ったに違いありません。その結果カインは弟アベルを殺してしまいます。(創世記4:3-8)

目から入る罪

 また、私たちには欲があり、時に誘惑され罪を犯すことになります。ダピデ王さまは、自分の家来の奥さんバテシェバを見かけ、貪り、姦淫を犯し、さらにその罪を隠すためにその家来を殺してしまいました。(Ⅱサムエル11:2-17)

貧りは他の戒めを破る入口

 第十戒を破ることにより、その他の戒(いまし)めを破る罪を犯すことになります。
 ダビデのケースではバテシェバを観て貪り、第七戒の姦淫を犯し、さらに第六戒の殺人を犯しました。第十戒は心の中のことを問題にしています。私たちの行動の動機になる部分を扱っているのです。主は私たちの心を見ておられます。

貪らない人生

 イエスさまがよみがえられてから、三度も主を知らないと言ったペテロに、「わたしを愛するか」と三度問いかけられました。ペテロの応えに対して「わたしの羊を飼いなさい。」とおっしゃいました。その時イエスさまは、ペテロがどのような死に方をするかも語られました。ペテロはそれに対して、不満に思ったのでしょうか、すぐにヨハネのことを聞きました。すると主は、ヨハネがどんなに長く生きたにしても、それがあなたに何のかかわりがありますかと言われました。(ヨハネ21:15~18参照) 神さまはペテロに彼の人生を用意してあるのだから、主を信じて従って来なさいとおっしゃりたかったのです。

 私たち一人ひとりに主は、特別の人生を計画していてくださいます。他の人と比べる必要はありません。なぜならば、私たちは主によって造られ生かされているのですから。「わたしを信じて、従って来なさい」とおっしゃる主に目を向け、他を貪らずに生きたいものです。主が準備された人生を歩む時、私たちにとって一番幸いであり、主が喜んでいてくださいます。