コラム・メッセージ
vol.66- colum 「接点を持った交わり」

キリスト教会のシンボルである十字架にはいくつかの象徴的な意味があります。一つは処刑の道具としての十字架です。主イエス・キリストは処刑される正当な理由の無いまま、十字架につけられて殺されました。

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vol.65- colum 「三角関係」

「三角関係」というと、なんだかやっかいなことが起こりそうな雰囲気を連想します。…

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vol.64- colum 「交わり」か「接触」か

たまらなく淋しいと悩んでいる人がいます。一人や二人ではなく、私たちの周りに大勢います。時には淋しい人が、淋しくない人よりも多いのではないかと思うことがあるほどです。都会に行けば、一時的に気を紛らわせる手段がいやというほどあります。そうした「催しもの」はいつも町を賑わしております。

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vol.63- colum 「私」の宗教か「私たち」の福音か

私は私一人だけでは生きることができません。「人」という字は、一人の人が股をひろげて立っている姿を描いたものだという説がありますが、むしろ、二人の人が互いに頼り合って人となる、と見た方が筋が通るのではないかと思います。

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vol.62- colum「ハスの花のように」

ハス寺で名高い、東京は町田市の円林寺で、しっとりとした桃色の、大きなハスの花を見たときの実感です。このハスは、2000年前のタネから、大賀一郎博士がみごとに咲かせた、いわゆる大賀ハス。一面に気品をただよわせています。

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vol.61- colum「いのちのことば」

「みことばの散歩道」という欄を与えられて書き出してから、これで5回目になります。ところが、老ヨハネの手紙の最初の節でぐずぐずしているものですから、いつ散歩に出かけるのだという声が間こえてきそうです。

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vol.60- colum「聞く」「聴く」

「わかっているのだけれどもなかなか信じられない。」という人によく出会います。この告白からすると、納得と信仰は全く別物だと言えそうです。

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vol.59- colum「言を聞いて、見て、触れたヨハネ」

とにかく使徒ヨハネは一風変わった手紙の書き方をしています。こんな文章で始めているのです。
 「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて…」
  (ヨハネの手紙第一 1章1節|新改訳)

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vol.58- colum「父のうしろ姿」

あざやかな、青柴、淡紅色の楽陽花が、石畳の階段をはさんで、緑の山一面、満開です。
 「見事ですねえ。」
 つい、近くのおじいさんに声をかけてしまいました。大きくうなずいて、しみじみといわれた、お年寄りのことばが忘れられません。

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vol.57- colum「初めからあったもの」

科学者はまず観察から仕事を始めます。見て、聞いて、触って、測って、分析して、それからあらかじめ設定されていた仮説を証明しようとします。ヨハネの手紙の書き出しを見ますと、「私たちが聞いたもの、目でみたもの、じっと見、また手でさわったもの」と科学者のような観察手順が丁寧に並べられています。

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vol.56- colum「時候の挨拶を抜いた手紙」

近年、手紙を書くのにあまり形式にこだわらなくても良いと言う声をあちこちから耳にします。それでも、冬ならば、「寒さがひとしを身にしみる毎日ですが…」、春がくると、「うららかな春の日差しに…」などのひと言を入れなければ、筆が進まないという人がまだまだ多いようです。

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vol.55- colum「漁師ヨハネの筆まめ」

大学教授とか文筆家ならともかく、一漁師が筆まめというのはあまり聞いたことがありません。細いペンをそっと持ち、精魂こめて何時間も机の前に座っているような習慣は、職業柄、漁師の身についているとは思えないのです。

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