中高年をいきいきと(1)
《執筆者:アッセンブリー新潟キリスト教会 土屋 潔》
先ず私たちはこのテーマで進めていく前に「中高年」とはどこまでを指しているのかを確認することにしましょう。「中高年」と一口に言っても様々な見解があります。広辞苑では「中年と高年。青年期を過ぎて老年期に至る間の年ごろ」。大辞林では「45歳以上65歳程度の人をいう」。
祈りのコラム (7)
《執筆者》柿崎昭司
『激しい大雨の音がする』
昨年の九月、私はリバイバルを体験するためにアメリカ(ペンサコーラのブランズビルアッセンブリーチャーチ)と韓国を訪問致しました。私は聖霊の圧倒的な能力(ちから)を霊と心と身体で実感し、やがてこの日本にも聖霊の大リバイバルが起こることを改めて確信し祈りつづけております。
祝福された信仰生活の5原則(5)
九州のある教会で、奉仕をさせていただきました。
礼拝プログラムの中に、献身の時(献金)とありました。そして礼拝者ひとりひとりが講壇に進み、礼拝献金と聖別(月定)献金等をささげました。献金をささげるとき、自分の全てを献げる「献身」のしるしとなっていました。
祈りのコラム (6)
《執筆者》澁谷友光
「祈りを楽しむ」
昨年度の私たちの教会の標語は、「祈りの家」であり、イザヤ書56章7節のみことばをいただきました。そこでは、神御自身が私たちを聖なる山に連れて行き、祈りの家で楽しませてくださると語られています。
祝福された信仰生活の5原則(4)
キリスト者には、二つの使命が与えられています。福音を伝えることと、教会を建てあげていくことです。キリスト者は、みな伝道の使命が与えられています。伝道することは責任であり、義務であり、喜びです。
祈りのコラム (5)
《執筆者》山田亘
「祈りは主のみ手を動かす」
私の体には百針の傷跡があります。それは虚血性心疾患のため、せまくなってしまった冠状動脈を足の血管をもってつなぎかえるという外科手術を受けたからです。
あれは1989年9月12日でした。「普通手術の時間が十時間かかるなら、あなたの場合はそれ以上はかかるでしょう。手街が成功して集中治療室に移されても病室に一戻れるのは三日以上かかるでしょう」と覚悟をさせられました。
祝福された信仰生活の5原則(3)
救われた者は、「神の子ども」とされ、神の家族の一員とされたのです。信仰の家族とされた者にとって、教会は、信仰を養い育てる大切な場です。この教会で養われることにより、キリスト者の目的である「神の栄光を現わす」人生が、開かれて行くのです。このように、神は、教会を通して、ご自身のみわざをなしとげて行かれます。ですから、教会を無視した信仰生活はありえないと言ってもよいのです。
祈りのコラム (4)
《執筆者》大塚学
「コツコツがコツ!?」
「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。」
私が今までの伝道牧会を振り返って、教えられるその一つは、たとい信徒の数が少数であり、財力が貧弱であっても、牧師と信徒が一致協力して御言を他に伝えて、一人でも救われる人をキリストに導き入れたいという熱意に燃えている時は、教会の生命が充実し発展している時だということです。
祝福された信仰生活の5原則(2)
キリスト者の生活は、祈りを中心として展開されて行きます。キリスト者の信仰生活は、その中心に祈りがあります。私たちの毎日の生活は、いやいやながら生きて行くというようなものでも、ただ惰性で動いて行くというものでもありません。祈りは、神との会話であり、交わりです。天の新鮮な空気を呼吸することでもあります。
祈りのコラム (3)
《執筆者》伊藤博
「主に用いられる人」
「絶えず祈りなさい。」(Ⅰテサロニケ1:17)
クリスチャンは主に用いられ、神の栄光を現わすことのできる幸いを、イエス様によって与えられている。
しかし、主に用いられる人は、人間的能力や優秀さ、人柄あるいは信仰歴といったものより、その人がいかに主の前に祈る人であるか、という点が問われることを知らなければならない。
祝福された信仰生活の5原則(1)
クリスチャンは、今までの世界に決別し、別の世界に新しく生きる者です。この世に無関心な者かと言うとそうではありません。この世の者でないのに、この世に関心をもって生きることが、キリスト者の生活態度です。キリスト者は、キリストによって世につかわされ、キリストの心と思いと力をもって生きて行く者です。
祈りのコラム (2)
《執筆者》下道定身
「祈りこそ」
昨年、東京に住むある姉妹の家が改築することになり、借金コンクリート(?)ながら、新しいビルの建築に踏み出しました。
工事公告の直後から工事完成間近の今日に至るまで、種々の圧力や試練が続きました。