祈りのコラム (1)
《執筆者》大坂克典
「祈り育てる!」生来、私は怠け者だ。朝はゆっくり寝ていたいし、夜は早く寝床にもぐりこみたい。そんな私が毎朝6時半頃に起きてお祈りするようになったのは、1983年5月17日からで、今年の5月がくると丸6年になる。
スッキリわかる教理の歴史ガイド⑪
イエスさまの空中再臨、死者の復活、携挙、大患難時代、イエスさまの地上再臨、千年王国、最後の審判、新天新地。アッセンブリー教団の信仰はこうですね。
(先生)よく勉強したもんだね。でも、教理の歴史では終末論が中心的問題として議論されたことはほとんどないんだ。使徒信条、ニカイア信条、その他主な信条では共通して、キリストが再臨され、すべての人をさばき、永遠にすべてのものを治められることを告白している。(先生)よく聞く質問だね。では今回は教会についての教えを見てみよう。
坂本キミ「私の生涯の回想記」(番外篇・召天記事)
去る六月二十五日、聖日の夕刻、八王子山王病院に入院中の坂本キミ師は、癌性胸膜炎(肺ガン)のため召天された。八十六年と五ヶ月の御生涯であった。
同月二十七日、同師の葬儀、告別式が八王子キリスト教会にて、教団伊藤理事長、石原総務局長、佐藤教区長ら列席のもと、上原和雄牧師の司式で行われた。参列者は百十名で、教団の大先輩の葬儀にふさわしく、聖臨在に溢れたものであった。
スッキリわかる教理の歴史ガイド⑩
(学生)今日、友だちから「キリスト教にはなぜカトリックとプロテスタントがあるの?」と質問されたんです。どう答えるといいですか?
(先生)よく聞く質問だね。では今回は教会についての教えを見てみよう。
坂本キミ「私の生涯の回想記」(第21回)
昭和十八年、世相は増々厳しくなって来ました。毎日追いつめられている思いです。
男達には、あの人にもこの人にも赤紙が来ています。表面は、「おめでとう」「男冥利に尽きる」とか、「祖国の鬼となって国を守ります」とか言っているのです。旗をふって町内の人達に送られて、「勝って来るぞと勇ましく」などと歌いながら行くのです。後の家族のみじめさを考えて下さい。親が、妻が、子供が、そのみじめさは想像にあまりあるものです。外に向つての笑顔も遠慮する有様です。人びとの心のイラダチは目に見えるようです。
坂本キミ「私の生涯の回想記」(第20回)
八月の終り頃に退院をして、先生が御自分の持っている軽井沢の家に帰って来ました。九月になると、私は八王子に土曜と日曜日帰って来るのです。日曜日のSSと礼拝のためです。信者達もよく教会を守って下さいました。月曜日には軽井沢に行くのです。メイドさんがおりますが、私の帰るのを先生は待っているご様子でした。当時は九月ともなると賑やかだった商店街はみな引上げて、店は張つけとなり、外路灯は消されて全くの暗黒の町でした。
スッキリわかる教理の歴史ガイド⑧
宗教改革者と言えばマルティン・ルターが代表的だ。でもルターは最初からプロテスタント教会を作ろうとしたわけではないんだよ。「聖書のみ」と言ったが、それまでの教会の信条や教父たちを無視したわけでもない。事実、ルターはアウグスティヌスから多くの影響を受けている。私たちプロテスタント教会も教理の歴史の上に成り立っているということだ。
坂本キミ「私の生涯の回想記」(第19回)
八王子は、またまた路傍伝道から、しかし、この頃世間は戦争が始まるかも知れないという噂がもっぱらでした。町には隣組が作られ、何でもが隣組単位になって来ました。ウェングラー先生と私は、この頃、中央線に在る町から村へと伝道を始めました。週に一回先生は、三鷹から汽車でおいでになり、八王子駅のホームで出合い、相模湖町を中心に村々町々に出かけます
スッキリわかる教理の歴史ガイド⑦
「中世」はその後の宗教改革と比較されてよいイメージはないかもしれない。当時の教会は真理から逸脱していたと考えられがちだ。しかしこの時代も教理の歴史で重要な役割を果たして来た。その一つがキリストの十字架の理解だ。
坂本キミ「私の生涯の回想記」(第18回)
神様は蒲田教会のために赤津老人を導いて下さいました。この老人は悟りを得るために八年間お寺にて修行をしていた人でしたが何の得る所もなく苦しんでいた時に、蒲田の路傍伝道から導かれて救いを握ったのです。年七十二才でした。