私の生涯の回想記(坂本キミ)
坂本キミ「私の生涯の回想記」(第10回)
昭和六年田中篤二兄か東京滝の川の聖霊神学院を卒業されて当教会に帰ってこられました。それで私たちはウェングラー先生と相談の上、私が導きに従って開拓にでかけることになりました。前より祈っていた事でしたが示されたのは「甲府」でした。
坂本キミ「私の生涯の回想記」(第9回)
ある日曜日の夜の集会の時でした。路傍伝道から引あげてのその夜の集会は大変に恵まれた集会でした。神の愛についての説教でしたが、その一人一人の恵まれた会衆の顔の中に一人、見なれない青年が一番うしろの隅の席で、小さくなっているのが見えたのです。
坂本キミ「私の生涯の回想記」(第8回)
一九二八年(昭初三年)六月私は東京近郊立川のベレヤ聖書女学院を卒業しました。卒業式にはC・F・ジュルゲンセン師(マリヤ先生のお父上)マリヤ師、また弓山先生、ウェングラー先生方がご出席下さいました。私はこの日のために母が作ってくれた着物を着ていました。
坂本キミ「私の生涯の回想記」(第7回)
神様は八王子伝道の為に自転車を二台備えて下さいました。…見た事もない女乗りの自転車が二台届きました。夏の休暇が終りお帰りになった先生が、さあ今から坂本さんは自転車を習いましょうとおっしゃってご自分も一緒に裏の静かな道路に出かけました。
坂本キミ「私の生涯の回想記」(第6回)
新しい年号の昭和に入って今までの住居兼教会が改築され、当時としては立派な教会堂が建てられました。入口の石造リの門には日本ペンテコスト教会と表示され、教会堂の中はそれまでの畳と違い講壇があり、椅子が並び洋風の窓の高い合天上という工合で、全く気分は-新され、信者一同喜びました。
坂本キミ「私の生涯の回想記」(第5回)
大正十五年にウェングラー先生は米国より再び来日され、八王子市追分町に住まわれたのです。それでデスリーヂ先生と若いお二人の伝道師とは立川市に引越しになり、この町で伝道を始められました。
坂本キミ「私の生涯の回想記」(第4回)
しかし自分なりの理屈はありました。即ち信仰は拾てていません、毎日祈っています、聖書は読みます等と…。だがキリストの体である教会から離れて心に喜びがある筈がありません。私の心は日増しに渇いて苦しみ始めました
坂本キミ「私の生涯の回想記」(第3回)
八月の夏休みも終り、九月一日の恐ろしい関東大地震があったのです。頂度昼食前でした。何とも現しようのない気味悪い恐ろしい鳴りがしだしたと思うと同時に、アッという間に体をほうり出す程上下震動が始まり、…
坂本キミ「私の生涯の回想記」(第2回)
さて私にとって全く珍らしいこの話の内容は、心を洗うものでした。「エプロンやハンカチは汚れても洗えるが一番汚れやすくてきたないのは人の心です。そのきたない心はうそを言います。いじわるをします。じゃ、それは何で洗いますか?」聞く大人達も考えていました。
坂本キミ「私の生涯の回想記」(第1回)
坂本キミ先生は、第2次大戦前から八王子を中心に、甲府および蒲田などで、熱心に伝道をなされた「生粋(きっすい)のペンテコステの偉大な伝道者」(弓山喜代馬師談)。…自筆の回想記を通して、共に泣き笑いしつつ、時代が変わっても古くならないものを見つめられれば感謝です。