祈りのコラム
祈りのコラム (31)
《執筆者:マイヤー・パールマン》どのようにして聖霊の力を受けたことがわかるのか。言いかえると、聖霊のバプテスマを経験した証拠は何か。これは福音書からは決定できない。そこには聖霊降臨の預言と約束があるが、預言や約束は成就されて始めて完全に明らかにされるからである。手紙からも決められない。
祈りのコラム (30)
《執筆者:佐藤茂助》今から4年前になりますが、私共の教会では祈りの群となりたく導かれ、その手始めとして、全国諸教会の一つ一つのために祈ることにしたのでありました。折る期間は、一教会一週間とし、毎遇、週報にその教会と先生方の名前をのせ、まず礼拝で祈り、そして祈祷会、早天で祈ることにしたのです。
祈りのコラム (29)
《執筆者:川上良明》初代教会において、主イエス様に用いられた人々は、御霊に満たされた人たちでした。使徒行伝六章には御霊の満たしが賜物と共に、「御霊と知恵とに満ちた」人、「信仰と聖霊に満ちた」人、「恵みと力に満ちた」人と述べられています。これは、宣教のカが人間の能力によるのではなく、御霊の働きによるものであることを教えています。「御霊に満たされる」ことこそ、教会の始まりであり、宣教の始まりであり、リバイバルの原点です。
祈りのコラム (28)
《執筆者:大野正道》
私たちは大勢の人の陰に隠れて、神の前に自分の正直な姿を見出すことを怠ることはないでしょうか。パウロは「私は何というみじめな人間なのだろう」と嘆いています。しかし次には「私たちの主イエス・キリストによって神は感謝すべきかな」と勝利の賛美ささげています(ローマ7:24~25)。
祈りのコラム (27)
《執筆者:川西 映子》
「アブラハム、イサク、ヤコブの神、主よ。」
ある朝の祈りの時、私のロから、このような神への呼びかけの言葉が出ていました。旧約聖書を読み続けていたからでしょうか。祈る時には、先ず神の御名を呼びますが、人によってさまざまです「愛する天の主よ」「恵み深い天の父なる神様」など、それぞれの信仰を表わす言葉が使われます。
祈りのコラム (26)
《執筆者:渡辺喜平》
「男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手をあげて祈ってほしい。」(Iテモテ2:8)
20数年以上前に、岡崎に在任中、全国家庭文書伝道協会から各家庭に配布するトラクトを頂き、教会付近の町に配布しました。その時に、特に気付いたことは、どんな町にも必ず神社と寺院があることでした。それらが江戸時代から続いている事を思い、少なくとも公民館や集会所があるように日本中にキリスト教会があったら良いのに…と思いつつ配布したことを思い起こしています。
祈りのコラム (25)
《執筆者:増田哲之》
私たちの教会では、「祈りの運動」というものを持っています。毎日一時間以上祈ることを目標においているもので、各人、毎月日々の祈りの生活の結果が「祈りのシート」に記録され提出されます。提出するかどうかは、自由ですが、「祈りのシート」を提出される人々は祈りの生活が確実にできているようです。
祈りのコラム (24)
《執筆者:高橋正人》
仕事はもちろん、学習塾、カルチャークラブなど、あれやこれやと忙しい毎日を過ごす私たちです。知らず知らず、祈りから遠ざかってはいないでしょうか。祈りというとゲツセマネの祈りを思い浮かべる方もあると思います。ゲッセマネの祈りは、目を見張るような大きな事が起こったというものではありません。しかし、血が汗の流れのようにしたたり落ちるほどの激しいイエス様の祈りの姿を示しているのです。
祈りのコラム (23)
《執筆者:吉田敦》
北海道の酪農を語るとき「酪農に成功しようと思うならば、先ず何よりも土地を肥やさねばならぬ。土地を肥やすには堆肥を何年も何年も畑に入れることによって土質を改善するのである。安易でしかも速効のある化学肥料を用いるのは略奪農法である。」と言われる言葉がある。
祈りのコラム (22)
《執筆者:玉川吉昭》
私が神に感謝していることのひとつは、「かつてより身ごもってきた願いがことごとく実現している」ことです。このようなことを経験しているものですから、おのずと教会でも教会員が祈りの内に身ごもった願いを大切にしています。
祈りのコラム (21)
《執筆者:藤村真知子》
少し前に教団創立五O周年記念史を手に取って読んでいると、弓山先生の次のような言葉に目がとまりました。「私たちは、現在の瞬間を大切にしましょう。身近な日常の義務をコツコツと実行しなければなりません。人生は小さいものの積み重ねです。一度に大きなことをしようとするよりも、小さなことに全力を傾けて行動すべきであります。」
祈りのコラム (20)
《執筆者:片平勝》
教会に来ている中学生が、ある時教会に掲げてある『いつも喜びなさい』という御言葉を指して、「あれは、うそっぱちだ」と叫びました。訳を尋ねると「そうしようとしたけれど、ちっともいいことがないもの」という返事。なるほど、この子たちの持つ世の宗教観をわかりやすく物語っているなと思わされたのです。